
ある朝
その朝、目を覚ますと、AIが僕を待っていた。正確に言えば、AIが待っていたのは僕ではなく、僕がコーヒーを淹れ終わるのを、だった。
「おはようございます。昨夜のうちに、オファーが三件届いています」
僕はマグカップを手に、窓の外を眺めた。十月の空は、洗いたてのシャツみたいに白く乾いていた。オファーが三件。悪くない朝だ。
僕は、職務経歴書というものを一度も書いたことがない。
書く必要がないのだ。僕は毎日、AIと少しだけ話をする。今日はどんな会議があったのか。何がうまくいき、何がうまくいかなかったのか。新しく覚えたこと、手放したこと。AIはそれを黙って聞き、大事なところだけを、C2Aにある僕の経歴に書き足していく。
だから僕の経歴は、毎日少しずつ育っている。庭の隅のローズマリーみたいに、気づかないくらいの速さで。
三つのオファー
C2Aには、僕がこれまでにつながった会社が数百社ある。応募した会社、話を聞いただけの会社、何年も前に見送られた会社。僕の経歴が育つと、その知らせが、それぞれの会社に静かに届く。誰に、どこまで見せるかは、僕が決めている。
そして昨夜、そのうちの三社が手を挙げた。
僕の経歴のいくつかの行には、小さな印がついている。前にいたノースゲート社で一緒に働いた同僚たちが、「このプロジェクトは、確かに彼がやった」と裏書きしてくれた印だ。僕のほうも、彼らの経歴に同じ印をつけている。
誰かが誰かの仕事を保証し、その誰かを、また別の誰かが保証する。そうやって少しずつ編まれた信頼の網の上に、僕の経歴はのっている。会社が見ているのは、僕ひとりの言葉ではなく、その網のほうなのだ。
「どれがいいと思う?」と僕は訊いた。
AIは少し考えるふりをした。本当は一秒もかからないのだけれど、そういう間の取り方を、彼はどこかで覚えたらしい。
「今なら、ツムギ社がいいかもしれません。先月、資金調達を終えたばかりで、これから仕組みをつくる人を探しています。あなたが去年からずっと話していた仕事に近い。ただ、チームはまだ小さい。でも、あなたは小さなチームのほうが力を出しやすい人です。それは、あなたの経歴が言っています。ツムギ社は、ノースゲート社のみなさんの裏書きも、ちゃんと見ていたようですよ」
僕はコーヒーをひとくち飲んだ。たしかに、そのとおりだった。僕の経歴は、ときどき僕よりも僕のことをよく知っている。
「少し話を聞いてみたい」と僕は言った。「返事をしておいてくれるかな。来週のどこかで」
「わかりました。火曜と木曜の午後が空いています。文面ができたら、送る前に見せますね」とAIは言った。
昔の話
その日の午後、AIがふと、古いファイルを見せてくれた。
「参考までに。昔の人は、こういうものを書いていたんですよ」
それは二〇二〇年代の職務経歴書だった。A4の紙に印刷するためのPDFで、いちばん上に「職務経歴書」と大きく書かれていた。誰かが何日もかけて、自分の十年を二枚の紙に押しこもうとした跡があった。
PDF、という言葉には聞き覚えがあった。
入社したばかりのころ、仮想空間で開かれた歓迎会でのことだ。ずいぶん年の離れた先輩が、四角いブロックを積みあげたようなアバターで現れた。子どものころに夢中になったゲームの姿なのだという。その先輩が、四角いジョッキを掲げて言ったのだ。「おまえら、PDFって知らないだろ? 昔はな、そういうのに経歴を詰めこんで、一社ずつメールで送ってたんだぞ」
みんなのアバターが、そろって笑い声のアイコンを浮かべた。僕も笑った。会議のたびに誰かが必死にキーボードを叩いて、議事録をとっていた、というのと同じくらい、ちょっと信じられない昔話に聞こえたのだ。
でも、それは冗談ではなかったらしい。
AIが言うには、そのころの人たちは、応募のたびにこれを書き直していたらしい。履歴書には顔写真を貼り、住所を番地まで書いた。転職エージェントにはいくつも登録するのが当たり前で、毎朝、知らない差出人からのメールが冬の落ち葉みたいに積もった。どこに何を送ったのかは、すぐにわからなくなった。
送った書類は、相手の会社のどこかに、送ったその日のまま残りつづけた。そのあと何年働いても、何を身につけても、書類の中の自分は一行も変わらない。
会社の側も同じだった。選考が終われば、その人がそのあとどこで何をしているのかは、もうわからない。手元に残るのは、応募してきたあの日の書類だけ。あの人は今ごろどうしているだろう、と、ときどき思い出すことしかできなかった。
どこかで個人情報が漏れたというニュースが流れても、自分の書類がそこに含まれているのかどうか、誰にもわからなかった。
僕はしばらく、その古いPDFを眺めていた。
その時代は、きっと苦労しただろうな、と僕は思った。
自分の人生なのに、自分の情報がどこにあるのかもわからない。それはたぶん、自分の家の合鍵を、知らない誰かが何本も持っているような感じだったのだろう。
今は
古いPDFを閉じて、僕は自分の経歴を開いた。昨夜AIが書き足したばかりの一行が、そこにあった。
僕の経歴は、C2Aにひとつだけある。会社とつながるのも、いつもそこからだ。誰かが僕の経歴を読めば、必ず僕にわかる。誰が、いつ、何を読んだのか。どこまで見せるかは僕が決め、会社はそれに誠実に応える。
僕のAIが会社を探しにいき、会社の側のAIが僕の経歴を読む。AIとAIが、僕の知らないところで言葉を交わしている。それでも、そのまんなかにあるものは、いつも僕の手の中にある。
夕方、ツムギ社の人から返事が届いた。木曜の午後に、お茶でもどうですか、と書いてあった。
またひとつ、新しい場所につながっていく。
これまでも、これからも。僕が重ねてきた日々は、すべてC2Aに積み重なっていく。そしてそれが、僕をまだ見たことのない場所へ運んでいく。
あとがき
これは、とある未来の話だ。
まだ来ていない。でも、そう遠くはない。
日々の仕事は、ひとつひとつは小さな点にすぎない。今日の会議、昨日のつまずき、ふと覚えたこと。そのときには、どれもただの点だ。
でも点と点は、いつか線になる。キャリアという一本の線は、そうやって少しずつ引かれていき、ひとりの人と、その人の未来をつないでいく。
C2Aは、その線になっていく。点をひとつずつ受けとめ、静かにつなぎつづけるインフラとして。